ようこそ箱根の温泉・箱根の旅館、仙郷楼へ

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0460-84-8521


仙郷楼150周年

明治時代 石村旅館の開業と温泉開発

当館は明治3年、石村菊治が現在地より少し下の南甫園の地に石村旅館として開業しました。


江戸時代石村家当主は箱根裏関所の常番頭をしており、明治初期には大涌谷で温泉開発をおこない、そこより引湯し湯治場として営業をはじめたものです。

明治45年に大涌谷から引湯に成功し、仙石原の観光開発の一助となりました。

その後私共仙郷楼を含むいくつかの旅館・箱根登山鉄道㈱など当時大涌谷に温泉権を所有していた人びとにより大涌谷からの湯引管が共同出資され、さらに、渋沢栄一氏を始めとした渋沢・三井・益田の三家、それに大倉組代表者等が発起人となり現在仙石原・強羅エリアに温泉を供給している「箱根温泉供給㈱」が設立されました。

様々な方々の努力と結晶により大規模な給湯そして奥箱根の開発が行われました。


大正時代の仙郷楼

大正2年この地に移り、仙郷楼と改称しました。このため私共は仙石元湯場といわれます。

戦前の仙石原は政財界の方々の特殊地域であり眼前の仙石ゴルフコースは昭和天皇が各国外交団と共にプレーをなされました。

当館を御利用された方々は政財界人、画家、文学者も多く渋沢栄一、大倉喜八郎、住友吉左衛門、山縣有朋、原敬、平沼騏一郎、また結城素明、小室翠雲、鏑木清方、安井曾太郎、徳富蘇峰、久米正男、海音寺潮五郎、高見順などです。(敬称は省略)


仙郷楼周辺の様子

この地仙石原は富士箱根伊豆国立公園の特別地区にあたり環境規制の強いところであります。そのため建物の高さ制限、色、装飾あるいは看板なども強く制限されています。

当館の前面には箱根外輪山がひろがり、緑濃く、裏山は秋には紅葉が美しく、敷地1万5千坪にはつつじ、しゃくなげ、ふじあるいはマメザクラなど数々の花々が季節ごとに咲き乱れます。


近くには箱根ガラスの森、箱根湿生花園、星の王子さまミュージアム、ポーラ美術館、芦ノ湖、大涌谷、金時山やゴルフ場(箱根湖畔ゴルフコース、箱根カント リークラブ、大箱根カントリークラブ、仙石ゴルフコース)などハイキングやゴルフ、テニスなどのスポーツ、また美術鑑賞などにも最適でございます。


仙郷楼と箱根との関わり

-天正10年(1582年)-
本能寺の変の年、甲斐武田家の家臣 渡辺勘兵衛は織田信長と徳川家康らの甲州征伐による武田家滅亡後一族郎党を引き具し相模仙石原に落ち延び隠棲、郷里石和村に因んで性を石村と称し、従者は勝俣性を名乗る。

その後70年間ほど世を忍ぶ隠遁生活を過ごし、二代石村五郎兵衛の代に至り幕府に見いだされ小田原大久保藩の客分として出仕、仙石裏関所御定番役に取り立てられ明治維新まで約200年間に亘り御役を世襲する。


-明治2年(1869年)-
十二代 石村菊治の時、仙石原関所廃止にともない食禄を離れ、一家再興を願い、大涌谷より竹桶を使い引湯を開始する。


-明治3年(1870年)-
火災により焼失、また温泉の温度も低いため大涌谷近くにて「石村旅館」を開業。


-大正2年(1871年)-
現在の地に移る。


-大正3年(1914年)-
仙石原には電灯が灯り、大正10年頃仙石原には3つの宿があり客室86室、5838人が泊まれたという。大正12年関東大震災により仙郷楼は半壊した。


-大正14年(1925年)-
十三代石村喜作が仙石原村長に就任し地域の為に尽力した。


-昭和5年(1931年)-
渋沢栄一氏をはじめとした発起により、箱根登山鉄道、仙郷楼(当時、13代石村喜作)などの温泉権利を出資した源泉権利統合を行い、箱根温泉供給株式会社を設立した。


-昭和25年(1950年)-
箱根湯本町長であった石村幸作(石村喜作弟)が参議院議員就任


-昭和27年(1956年)-
石村幸作が旅行あっ旋業法(現在の旅行業法)発議


-昭和31年(1956年)-
5町村合併により現在の箱根町誕生、石村喜作初代町長に就任


そして、平成、令和と時代は流れ、今なお仙郷楼の歴史は石村家と共に脈々と続いている。



仙郷楼の歴史をフォトギャラリーでお楽しみ下さい。

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昭和初期・中期


昭和40年代


昭和50年代


平成初期


2021年11月12日の朝日新聞(神奈川版)に仙郷楼と大涌谷の温泉と渋沢栄一翁のことが掲載されました

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